「悠から連絡来たぜ。用事終わったからこっちに合流するってさ」 携帯電話をポケットにしまった光輝が、建物の壁に寄りかかりながら軽く手を振った。 「……」 葵が無言のまま、西の空に橙色に輝く太陽を見やった。 どこか妖しくもある色合いのまま、ゆっくりと地平線上に飲み込まれていく。 そしてさほど経たないうちに、辺りは段々と夕闇の色へと塗り変えられていった。 俗に言う、逢魔(おうま)が時。 『……そろそろ、だな』 「あと少しで危ない感じになるから、アンタはどこか行っちゃってた方がいいわよ。関係ない人を巻き込みたくはないし」 そう言って、葵が周囲を見回す。 「……あれ? あのおっさんは?」 だがいつの間にか、クロードの姿はどこにも見えなくなっていた。 「おっかしーな、さっきまでちゃんといたはずだよなぁ」 「変なの。こういうの、シンシュツキボツって言うのかしら」 二人でひとしきりぶつくさ言ってから、葵は頭を振った。 「まあいいわ。そんな事よりも、今はアイツらをどうするかを考えなくちゃ」 『……ああ。だが、お前は下がっていろよ。リバイアサンも効かないようだし、今回ばかりはいくらなんでも私もどうにも出来ないからな』 「……。分かったわよ」 どこか不満そうに、しかしそれでも現状を把握しているのか押し黙る葵。 「でも、何か出来る事ないのかしら……。少しでもあたしたちが有利になる事とか」 そこでふと、光輝がポンと手を叩いた。 「そうだ。アイツら、毎晩俺たちの前に現れる、ってだけ言ってたよな」 『ああ。確かそのはずだったな』 「って事は、だ」 取り出した携帯電話を再度耳に押し当て、どこかへと電話をかけながら光輝が言う。 「戦う場所は、俺たちが指定していいんだろ?」 「学校の校庭……?」 集合場所変更の旨を伝えられ、その場に到着した後の二人。 怪訝な顔で周囲を見回しながら、悠が息を吐いた。 「そそ。ここなら被害も出ない、だろ?」 校庭中をゆっくりと歩き回りながら、時折樹木や植え込みの近くでしゃがんではまた歩き回る、を繰り返していた光輝。 言いつつ、頭上の校舎に掲げられている時計を見上げた。 「今の時間帯なら、あまり人も残ってないだろうしな」 平日の午後六時前。授業が終わってからかなりの時間が経過しているとは言え、まだ生徒が校内に残っていないとは言い切れない時間帯だった。 「でも……」 「分かってるって。だからこその兄貴のクオリア、ってな」 立ち上がって伸びをした光輝が、首だけを動かして白斗を振り返りつつ親指を立てた。 「……使うのは構わないし、俺も最初からそのつもりだった。でも……」 木刀を取り出した白斗はそこで一度言葉を切り、少し考えてから再度口を開いた。 「累積のペナルティによる再使用時間(リキャスト)を考えて、今回使えるのは一度きりだけ、だと思う。その代わり、時間は多めに取る」 『……ああ。ここでケチっても、いい事は何もないしな』 ……。 「少女よ、言うまでもないが我が輩は何も出来んぞ」 そしてその背後でどこか申し訳なさそうに、一連の話を聞いていたらしき魔人が言う。 「別にいいわよ。アンタのためでもあるし、あたしのためでもあるし、アイツらに襲われてた悠のためでもあるの」 「だがしかし……」 何かを続けようとした相手を無視して、葵は頭上を見上げた。 「それでも気になるなら……そうね、全部無事に終わったらあたしの事、様付けで呼んでもらおうかしら」 そして訪れた、最初の夜。 ゴウ、という生暖かい風がどこよりか吹き寄せ、いつの間にかそこに立っていたのは。 昨晩の魔界よりの来訪者。有翼の堕天使(フォールン)と、物言わぬ死神(デッドエンド)。 「我は言ったはずだ」 黒衣の堕天使が、口の端にうっすらとした笑みを浮かべた。 「戦わずに逃げ出すも、貴様たちの自由だと。まさか、わずかでも勝てる気でいるのか」 「もちろんよ! アンタこそ、後で泣きながら土下座しても許さないんだから!」 そう叫んで眼前の相手に指を突きつけると、堕天使の浮かべた笑みに嘲笑の色が混じる。 「余興の一環だ。今宵は、悪魔(ヴァイタルス)のみが相手をしよう。我と死神(デッドエンド)は、一切の手出しをしない。そう誓ってやろう」 「そんなナメきった事言ってんじゃ――」 『……やめておけ、葵。向こうが勝手に戦力を削ってくれるのなら、こちらはそれに乗らせてもらうまでだ』 クレアの声が聞こえているのかいないのか、堕天使の笑みが一層濃くなった。 「最も、貴様らが束になろうとも絶対に勝てはしないだろうが」 「そう言えるのも今の内よ! 来なさい、リバイアちゃん!」 彼女が手を天に掲げると同時、巨大な水の龍がその場に顕現した。 「……葵」 ふと悠が警戒気味に周囲を見回しながら、名を呼んだ相手の制服の袖を引いた。 「昨日の悪魔の姿が見えない、けど」 そこで彼女も相手の数が足りない事に気づき、同じように周囲を見回す。 「あれ? あのマッスル山羊男、どこ行ったのよ?」 「……」 堕天使と死神は何も言わず、その姿は同時に夜の闇の中にかき消えていった。 「少女よ」 ふと、宙に浮かんだソウルジャグラーが、頭上を見上げたままつぶやくように言った。 「来るぞ。上だ」 魔人の見上げている方向、校舎の屋上で暗闇に紛れるようにして立ち尽くしているのは。 昨日の、赤銅色の体躯の山羊悪魔。 そしてその身がゆらりと動いたかと思うと、葵たち四人が立つ位置目がけて飛び降りる! その瞬間、とある少年はつぶやくように宣言した。 「時間停止、30分だ」 その声を合図にしたかのように、直後に落下してきた悪魔の剛腕がグラウンドに叩き付けられた。 もし仮に時間停止のクオリアによる保護作用が無かったとしたら、グラウンドにはまるで隕石でも降ってきたかのようなクレーターが出来たであろうことは、想像に難くなかった。 そして本来ならもうもうと立ち込めているはずの砂煙も巻き上がらないという、時が止まった世界。 標的を外した悪魔が立ち上がると同時。 植え込みの陰から、樹木の陰から、広々とした校庭の陰という陰から、光輝の『トリッキーアート』によって生成された金色の蛇が一斉に這い出て、相手の丸太のような足に絡みつく! だが山羊悪魔が身を震わせると同時、金色の蛇の大群は一匹残らず即座に霧散した。 「……ハァ!? あれ全部仕込むのどんだけ面倒だったと思ってるんだよ……。でも、ちょいと止まれば十分、っと!」 悪態をつきながら、光輝は数メートル先への相手へと向けて雷撃を撃ち込む。 雷撃の矢は相手の胸元を貫き、その奥の体育館の外壁に突き刺さって消散した。 だが。 相手は一向にダメージを受けた様子を見せず、そのまま猪突猛進に突っ込んでくる。 「おいおい、マジかよ……!」 ふと後方から援護射撃のように放たれた、リバイアサンの火球が山羊悪魔の頬をかすった。 そしてその青白い炎に照らし出された相手の胸元には、焦げたような跡が残っていただけだった。 「至近距離じゃないと効かない……?」 光輝の背後で、悠が小さくつぶやいた。 「でもあれに近づくのかよ……」 巨体に見合わないスピードで突き進む、四本の腕の山羊悪魔。 そしてその巨体と辺りの薄暗さは、光輝の遠近感を狂わせていた。 相手はいつの間にか彼の眼前で、岩をも簡単に粉砕できそうなその剛腕を振りかぶった。 「……は?」 「光輝。伏せてて」 飛び出した悠が、自身の前に緑色の障壁『イージス』を展開した。 一瞬の後、山羊悪魔の剛腕が二人を殴りつける。 そしてガキン、という鈍い音と共に殴打が止まった。 一撃で障壁が壊れないと分かると、山羊悪魔は狂ったように何度も何度もその拳を打ち付け始めた。 まるで空気が感電したかのようなビリビリとした感触が障壁越しに伝わり、その度に悠の額に脂汗がにじんだ。 「お、おい」 「話しかけないで。死にたくないなら」 震える息を吐き出し、相手の巨木のような拳が再度突き出されるタイミングに合わせ、悠はその威力を反射して弾いた。 相手の身体が吹っ飛び、体育系の部室棟があるプレハブ群へと突っ込んでいく。 「お前は下がってろって……」 「私がいなかったら、あなたの身体がグロテスクな事になってたと思うけど」 冷ややかに返し、やはりダメージもなくすぐに起き上がった相手へと向き直る。 「一撃でも食らったらアウトだなこりゃ……」 「一点集中すれば、少しの間なら何とか……耐えられそう」 二人それぞれの感想を吐き出し、再度の攻撃に備えて構えると。 「リバイアちゃん!」 背後で葵が叫び、それに呼応した魔獣が山羊悪魔をその鞭のようにしなった尾で打ち据えた。 再度あらぬ方向へと吹っ飛んだ山羊悪魔を、放たれた火球が追撃する。 「なんだ。いけそうじゃない。リバイアちゃんやっちゃってー!」 やー、と片手を振り上げながら「リバイアちゃんファイアー」だの「リバイアちゃんボンバー」だの、命令らしきものを矢継ぎ早に繰り出す葵。 『いける……のか?』 一連の戦闘を、葵たちと共に少し離れたところで見つめていた白斗は、魔人がどこか渋い表情を浮かべていることに気が付いた。 「……。どうであろうな」 ソウルジャグラーはその表情を崩さずに、あごひげを撫でた。 「一見押しているようには見えるが、相手に攻撃が効いているとはとても思えん。おそらくこのままだと……」 その瞬間、山羊悪魔は自身の数倍差はあるであろう巨体の魔獣を持ち上げ、そのまま地面へと叩き付けた。 その大口から空気が漏れ出るような音を発した魔獣を、そのまま殴打し始める。 「な、何すんのよ! リバイアちゃん起きて!」 葵の声が聞こえたのか鎌首が持ち上げられたが、そこに即座に剛腕が叩き付けられて地面へと沈んだ。 そして。 「隙あり、っと!」 その背後から、最大出力での「溜め」が完了していた全力の雷撃を、片手に載せて至近距離から相手の腰部分目がけて叩き付ける! それと同時に、一瞬だけ辺りにまるで真昼のような閃光が走った。 だが。 山羊悪魔は、何事もなかったかのようにゆっくりと振り向いた。 「……はぁ?」 次いで、ブン、と風を切る音と共に、呆けている襲撃者を叩き潰そうと迫る腕。 そして二者の間に、先ほどと同じように飛び込む影が一つ。 展開された淡い光を放つ緑色の障壁に阻まれ、ガキン! と音を響かせながら再度腕の動きが止まる。 山羊悪魔は二人を押しつぶそうと、そのままその巨体の体重を乗せ始めた。 ギギギ、と押し込まれ、障壁で保護された空間がゆっくりと狭くなっていく。 「おい、これ……」 「……大丈夫。このくらいならまだ耐えられる」 これを弾いたところで、この巨体を吹き飛ばせるかどうかは分からないけど、と悠が言おうとしたその時。 四本腕の山羊悪魔は、押し付けているものとはまた別の腕で大きく振りかぶった。 「……!」 とっさに上からの重圧に耐えている障壁を薄くし、真横へと新しく展開する。 だがそれは、防御性能の要である「厚み」を全体で共有する盾であるイージスにとっては致命的な事で。 パリン、と何かが割れるような音がしたかと思うと頭上の障壁がかき消え、そこから剛腕が二人目がけて迫っていく! 「……悪い、悠!」 言うなり光輝が相方を後ろに突き飛ばしながら、自身も同じ方向に飛び退(すさ)った。 それを追うようにして真横からの腕が迫り―― 二人を捉えた。 「げほっ……くそっ、大丈夫か悠……」 「……何とか」 二人同時に体育館の外壁に背中から叩き付けられ、悠は一瞬気を失いかけながらも目を開けた。 丸太のような剛腕に殴り飛ばされる瞬間にギリギリでイージスを展開したものの、やはり勢いは完全には相殺しきれなかったようだった。 「……感謝して。上手くいっていなかったらどうなってたかは分からないけど」 そう言って、自分たちの背中側、つまり外壁に打ち付けられた側にクッションのように展開された障壁を消滅させる。 「おい、お前、それ……」 ふと光輝が震える手で彼女の頭を指さした。 不思議に思って悠が触れると、激突で頭のどこかを切ったらしく、赤い液体がべったりと付着していた。 「……別に大丈夫」 そう言って立ち上がると、唐突にまるで貧血気味であるかのように視界が眩(くら)んでしゃがみ込んだ。 ふと前を向くと、そこに山羊悪魔の姿はなかった。 光輝よりも魔獣の方が厄介だと認識しているのか、二人より離れた位置で先ほど既に叩きのめした相手へと執拗に殴打を加えていく。 「くそ、もう一回だ!」 そして、立ち上がった光輝が叫んだ。 「無茶しないで。今度は私も上手くサポート出来るかどうか……痛っ」 「んなこと言っても、どうすりゃいいんだよ……!」 横倒しになったリバイアサンの巨体を殴り続けていた山羊悪魔の背後に、とある少年は立っていた。 気づかれていないのか、それとも気づかれた上で無視されているのか。 どちらにせよ好都合だった。 『おい、やめろ! いくらなんでも無理だ!』 どこか遠くで幽霊が叫ぶ声を無視し、小さく息を吐く。 そして。 背後から、山羊悪魔の足の関節だと思わしき箇所に全力で木刀を叩き付ける! が。 「硬っ……」 逆に自身の手をびりびりとした感触が襲うのみだった。 思わず得物を取り落としそうになるものの、何とか持ちこたえる。 まるでコンクリート塀でも打ち据えたような、硬い感触。 そして振り向いた山羊悪魔は、まとわりつく小バエでも追い払うかのように、その剛腕をブン! と振り回した。 身をかがめて避けた白斗は、相手の黒く落ちくぼんだ眼球部分へと目がけて木刀を突き入れる。 流石に目は弱点なのか、悪魔は顔を少し反らして刺突を額で受け止めた。 だがそれも同じくただただ硬い感触で、一切傷を受けた様子が見られない。 「どんな化け物だよ……」 秋津さんから教え込まれた人体にとっての急所らしきものもほとんど通用せず、白斗はうんざり半分、そして焦燥半分で、眼前の相手を睨み付けた。 次いで、山羊悪魔の四本の剛腕が同時に邪魔な羽虫を捕らえようと伸ばされた。 地を蹴って距離を取り、息を整える。 「目、か……?」 誰へともなくつぶやき、どうにかしてその急所を狙うべきかと思惑を巡らせていると。 その巨体に見合わない猛スピードで突進してきた相手は、白斗を殴り潰そうとそのまま大きく振りかぶった。 「……!」 数回のサイドステップを取り、拳の軌道から逃れる。 直後、豪拳は直前まで標的が立っていた位置を通り抜けていく。 だが。 ふと、刃物で切り付けられたかのような一筋の赤い線が白斗の頬を横切った。 完全に見切ったと思ったが、風圧だけで切り裂かれたようだった。 「……」 先ほどのうんざりとした感情が、どんどん焦燥感で塗り潰されていく。 ――ここまで二十分が経過した。 再度時が動き出すまで、あと十分。 「嘘……これ、どうすればいいのよ……」 山羊悪魔による一方的な戦闘を、はるか後ろで見つめ続けていた葵は震える息を吐き出した。 視界の奥では、ボロボロになってもフラつきながら立ち上がった二人の人影。 先ほど殴打されたきり、ピクリとも動かない巨大な水の龍。 そして、ちょうど今も山羊悪魔と対峙している人物の姿。 「ちょっと、ちょっと待ってよ……」 先ほどから何度も両者の間に飛び出そうとしては、クレアに制止され続けていた。 唇を強く噛みしめては、何も出来ずにその場にただ立ちすくむ。どこかうっすらと鉄の味がした。 「何か……何かないの? ねぇ……」 その時、刺突を打ち込んでいた人影の持つ木刀が山羊悪魔に掴まれ、まるで小枝か何かのように折られたのが見えた。 「逆転の一手なら……ある」 苦い顔をしつつ、そばに浮かぶソウルジャグラーが吐き出すように言った。 「魔獣リバイアサンを、ソウルの呪縛から解放するのだ」 「……え?」 予想外な一言が魔人の口から出て、葵は頭上を見上げる。 「あの水の龍は、我が輩が与えたソウルの呪縛で本来の力が出せずにいるのだ」 前方の様子を見据えながら、相手は髭を撫でた。 「さらに少女よ、君がソウルで押さえ付けるのに必要な精神力をリバイアサン自身と共有しているため、さらにそこからも落ちる」 「……」 「そうなっては流石の猛る海皇も、あやつのような低級悪魔にさえ太刀打ちは出来まいて」 魔人の説明を無言で聞いていた葵が、いつになく真剣な表情で息を吐いた。 「……つまり、リバイアちゃんにかけたソウルをいったん解除して、そのあと全部終わってからもう一度命令を聞かせ直せばいい、ってわけ?」 「いかにも。……上手くいけば、であるが」 どこか歯切れ悪く、魔人がつぶやく。 『上手くいかなかった場合……どうなる?』 その問いに相手は答えず、ただ無言で首を横に振った。 ふと前を見やると、山羊悪魔は疲弊した三人へとゆっくりと向かっていくところだった。 「……!」 意を決し、葵は地に倒れ伏した魔獣の元へと駆け寄った。 目を開けぬ海皇の角らしき部分を撫でながら、そっと呼びかける。 「リバイアちゃん、起きて。好きに暴れていいから、アイツをやっつけちゃって!」 そして。 どこかで、パキン、と何かが砕け散るような音がした。 ソウルの呪縛から解き放たれ、ゆっくりと身を起こした水の龍。 その力が強力過ぎるためか、干渉を受け付けないはずの時が止まった世界の中ですら大豪雨が降り注ぎ始める。 その双眸(そうぼう)は闇夜の中でも紅く爛々と輝き、数十メートル先の山羊悪魔を凝視していた。 あれほど食らったはずの殴打で弱っている気配など微塵も見せず、その鎌首をもたげる。 そして魔獣の覚醒に気付かない前方の相手へと目がけ、その口腔から青白い大火球が放たれ。 避ける間もなく、山羊悪魔の全身が炎に包まれた。 時が止まっているせいで、決して土と混じり合わない雨水で海のようになった校庭。 不気味なほど青白く燃え盛る炎で、辺りが照らされる。 火だるまになった山羊悪魔は、その場をのたうち回るようにして転がる。 「効い……てる……?」 それでもまだ悪魔に対する警戒を解けないのか、悠が同方向に障壁を展開したままつぶやいた。 「当然であろう。これが魔界の生物、海皇たる者の真の力だ」 葵に付き従うかのように浮遊しながら3人の元へ向かう、ソウルジャグラー。 大豪雨で消火されたのか青白い炎はやっとかき消え、そこに残るのはピクリとも動かない山羊悪魔の姿のみ。 『……これが本気で暴れたらと思うと……ぞっとするな』 はるか後方で双眸を輝かせながら、音もなくたたずむ海皇を視界に捉えてクレアがつぶやいた。 「さて、あとはリバイアちゃんを調教し直して、っと」 そう言って葵が振り向いた瞬間。 数十メートル先の魔獣は、突如その大口に宿した数個の大火球で辺りを焼き払い始めた。 白い蒸気と共に、雨水が降るそばからどんどんと蒸発していった。 着弾した青白い炎が、すぐさま周囲の地面を食い荒らすかのようにして広がっていく。 そして火球の一つが、その場の四人の元へと飛来した。 「え? もう終わってるから! 十分だってば!」 「……全員集まって……っ」 叫びながら手を振る葵の襟を掴んで引き戻し、展開した障壁の範囲内へと押し込む。 その背後の二人の少年がしゃがみ込んだのと同時に、大火球が障壁に激突した。 「……っ」 衝突する火球に拮抗するかのように、手を伸ばして障壁を維持する。 障壁を隔てていても感じる、火で直接炙(あぶ)られているかのような熱さ。 そして、いつしか青白い大火球は―― 緑色の障壁を食い破った。 「はぁっ、はぁっ……!」 光輝が目を開けると、そこにはただ肩で息をし続けている悠の姿だけがあった。 「全員……大丈夫か……?」 そう言って振り向くが、誰にも被害は及んでいなかったようで彼は胸を撫で下ろした。 展開されていたはずの障壁は影も形も見えず、そして青白い大火球も同じくかき消えていた。 「ちょうど……相殺できた……?」 荒い息を吐きながら、悠がつぶやく。 「……良かっ……」 「お、おい!」 そしてここにきて疲労と出血が限界に達したのか、言葉の途中で彼女はその場に倒れこんだ。 「……」 無言で彼女を受け止めた白斗は、猛る海皇を見つめていた。 今しがたの大火球は消え失せたものの、視界の奥ではいくつもの青白い炎が水を蒸気に変えながら、まるで地面を舐め尽くすかのようにうごめいている。 そしていつしかそれらも、天より降り注ぐ大粒の雨で消火されていった。 「お手! お座り!」 葵が叫ぶが、声は一向に届かない。 それを阻むのは土砂降りの大豪雨か、それとも。 宙に浮いて避難していたらしき魔人が、海皇を見つめて宣言した。 「さて、少女よ。我が輩が与えたソウルで、リバイアサンを改めて縛り直すのだ。以前と同じように我が輩も力を貸そう。覚悟は良いな?」 「ええ、もちろんよ。やってやるわ」 同じく対象を見つめたまま、大きく息を吐く葵。同時に、水を吸って重くなったマフラーをその場に投げ捨てた。 「あたしがやらなくちゃ、ダメなんだから」 ふと彼女は振り返り、その場の全員を見つめてつぶやくように言った。 気を失った悠を背負った白斗、遠くにたたずむ魔獣を見つめていた光輝、宙に浮いた幽霊と魔人。 『おい、本当に大丈夫なのか……?』 ふと、どこか心配そうにクレアがつぶやいた。 「何言ってんのよ。大丈夫、前は出来たんだから」 ソウルの制御から外れた魔獣は、数十メートル先で辺りに咆哮を響かせる。 その瞬間、葵は泥だらけのグラウンドを駆け抜けながら――それに宙に浮かんだ魔人も続き――水の龍の巨体へと向けて手をかざした。 自身の身体がどちらを向いているのかすらも分からない、まるで宇宙のような真っ暗な空間内。 そこで葵とソウルジャグラーは、リバイアサンの精神体と遭遇していた。 『あら、今度は起きてるのね』 空間の中心部で身体を丸めるようにしていた魔獣は、その瞳を開いたまま何をするわけでもなく、ただその場にたたずんでいた。 『ふむ。先月のように怒りで我を忘れているようではないようだな』 そう言って髭を撫でたソウルジャグラーの姿が――突如かき消えた。 『え?』 怪訝な顔で振り返った葵は、そのまま首を振った。 『って、余計なこと気にしてる場合じゃないわ。早くリバイアちゃんを止めないと』 だがいくら経っても、以前ソウルを使用して成功した時のような感覚は一向に訪れなかった。 『あれ? 何でよ? リバイアちゃん?』 眼前の魔獣の精神体をゆさゆさと揺さぶったその時、相手の瞳が光った気がした。 『汝、以前我を縛りし者か』 「……いかん!」 大粒の雨が降りしきる現実世界で、宙に浮いた魔人は突如目を見開いて叫んだ。 その声で、その場の全員が魔人を見上げる。 「おい、なんかあったのかよ?」 「……あの少女のソウルの出力があまりにも弱すぎて、我が輩だけがリバイアサンの意思で精神世界内から追い出されてしまった」 『……それは、まさか……?』 「……。ソウルは精神力の強さが出力に直結する。あの少女は、おそらく今回の件で心底動揺していた」 苦々しそうにつぶやく。 「……そうなっては、おそらく本来のソウルの出力は出せまいて」 『……おい、何か出来る事はないのか……!?』 魔人に掴みかからんばかりの勢いで、クレアがその半透明な拳を握りしめた。 「今はあの少女を信じるしかあるまい。ただ、先月よりも成功する確率は……」 そこで魔人は口ごもり、その先を言う事はなかった。 『……?』 葵が今しがた告げられた言葉の意味を理解するよりも前に、相手の鎌首がもたげられた。 『汝、我を再度従属せしむる事を欲するか?』 『ええ、そうよ。つべこべ言わずに、黙ってあたしについてきなさい』 そう言って相手に指を突きつける。 が。 『否。今の汝の力量、我に遠く及ばず』 『訳分からないこと言ってないで、いいから言うこと聞いてよ! 後でプレゼントでもしてあげるから!』 ふと、精神世界に飛び込む前に見た光景がフラッシュバックした。 こうしている今も荒い呼吸を続けているであろう少女を初めとした、ボロボロになった数人の姿。 『なればこそ、汝、我に対価として何を差し出すか』 『後で好きなもの買ってあげるから! お願いだからあたしの言うこと聞いて! 今は時間が無いの!』 そして。 『否。汝、我が付き従うに相応しき者に非ず。非力な弱者なり』 いつしか、一つ一つが人の腕ほどもありそうな太さの牙が生え揃う大口が開いていて。 『え――』 反応する間もなく葵の精神体が一口で飲み込まれ。 そのアギトは、閉じられた。 大豪雨が降りしきる中、棒立ちになっていたとある少女の身体は。 『おい……? 葵……?』 まるで宿主を失ったかのように、唐突にその場に崩れ落ちた。 雨水が溜まり海のようになった地面に突っ伏した彼女の中に、即座に幽霊が入り込み絶叫した。 「葵ッ!? どこだッ、返事をしろッ!!」 とっさに目を閉じ意識を集中させても、彼女の気配はどこにも感じ取れない。 まるで、この世から消えてしまったかのように。 「駄目であった、か……?」 何も変わらず降り注ぎ続ける大豪雨の中、魔人が小さくつぶやき、すぐに雨に流されるようにして消えた。 『あれ……?』 ふと目を開けた葵は、ゆっくりと自身の身体を見回した。 手も足もちゃんとついている事を確認すると、小さく首を傾げた。 『あたし、リバイアちゃんに食べられたはずじゃ……?』 するとまるでそれに答えるかのように、眼前で身体を丸めたこの空間の主の声が響いた。 『そのつもりであった。我、確かに一度は汝を飲み込んだ』 『……?』 『されど我、汝の精神を直に咀嚼するに際し、異質な空洞を見つけた。我、そこに興味が湧いた』 つまり、何か気になるものを見つけたから吐き出してくれたのね、と聞こうとする前に、相手の言葉の中に引っかかるものを感じた。 『ちょっと待って。空洞? 一体何のことよ?』 だが相手はそれには答えず、突如視界が明るくなっていき―― 『なればこそ、我、その結末を見届けるまで力を貸そう』 ――現実で目が覚めた。 『葵、おい、大丈夫か!? しっかりしろ!』 ふと彼女が目を開けると、心配そうにこちらの顔を覗き込むいくつかの人影が見えた。 「……大丈夫よ。何よ、そんな泣きそうな顔なんかして」 どこか鈍痛がする頭に手を当てつつむくりと起き上がり、辺りを見回す。 「ん、えっと、確か……。そうだ、リバイアちゃん!」 大豪雨が降り注ぎ続ける中、はるか前方の巨大な水の龍は動きを止めていた。 吐き出した火球で燃え盛っていた地面すらもとうに豪雨で消火され、見渡す限りの水浸しのグラウンドだけが残っている。 葵が手を振ると、それに呼応するかのように辺りに咆哮を響かせた。 「……やった、のかよ……?」 「……。今の君は、確かにソウルを介してリバイアサンと繋がってはおるが、縛り付けてはおらん。なのに何故、魔獣は君に従う……?」 「んーと、なんかあたしの中にある何かが気になるから、手を貸してくれる、って」 その言葉で、その場の全員が頭の上に疑問符を浮かべた。 と。 「……時間切れ、だ」 全身あちこちに打撲や切り傷を作った少年が、ずっと握りしめていたらしき折れた木刀をその場に投げ捨て、小さく息を吐いた。 その途端止まった時が再度動き出し、雨水と混じり合った地面が唐突にぬかるみ始めた。 「げ……。でもまあ、これでとりあえずは全部終わっただろ」 足にまとわりつく泥に顔をしかめた光輝が、ふと振り向くと。 数メートル後ろで倒れていたはずの山羊悪魔が、間近で大腕を振りかぶっていた。 「こいつ、まだ……っ!」 その場の全員が振り向いたのと同時、今まさに剛腕を叩き付けんとした山羊悪魔は―― 真横から飛来した青白い大火球に飲み込まれた。 相手の足元の地面が見る見るうちに乾いていき、辺りに白い蒸気と凄まじい熱気が立ち上る中のたうち回る。 いつしか相手は業火の中でゆらりと立ち上がり、周囲の地面に拳を打ち付け始めた。 『何……?』 目が見えなくなっているのか、それでも標的を仕留めようと全力の殴打を繰り返す山羊悪魔。乾いた地面にいくつもの巨大なクレーターが刻まれていく。 そして―― リバイアサンの口から再度吐き出された大火球が直撃し、その身体は今度こそ跡形もなく蒸発した。 ――山羊悪魔(ヴァイタルス)、撃破。 「……こんな化け物飼ってるのかよお前……」 何か恐ろしいものでも見るかのように、葵とリバイアサンを交互に見比べる光輝。 「ふふん、どう? すごいでしょ。……でも、これで今度こそ一件落着ってとこね」 心底ほっとしたかのように、葵は大きく息を吐き出した。 「帰っていいわよ、リバイアちゃん」 そう言った瞬間、巨大な姿は一瞬にして闇に溶けるかのように消えていった。 同時に雨粒がどんどん小さくなっていき、いつしかどす黒い雨雲もかき消えてそこには綺麗な夜空が広がっていた。 それから葵の手が、とある人物の顔へとそっと伸ばされた。 「……安心して。アンタのカタキはちゃんと取ったから……!」 『……死んでないけどな』 白斗に背負われたまま、悠は静かな寝息を立てていた。 「さ、帰りましょ! この子は……とりあえず病院かしら」 『……全員だ。お前たち、一度病院で見てもらってきた方がいいぞ。念のためな』 「確かあそこ、この時間帯では急患以外受け付けない、って書いてあった気がするけども」 「全員急患って言えば大丈夫だろ。多分」 そんなことを話しつつ、葵を先頭にして校門まで歩いていく。 ふと背後の校庭を振り返った白斗が、唐突にその場でしゃがみ込んだ。 そんな彼を疑問に思いつつ、葵はその背で眠ったままの悠の顔を見つめていた。 「ところで少女よ、さっきのは一体何なのだ?」 同じく悠を見つめながら、魔人が髭を撫でた。 「さっきの……って?」 「先ほどリバイアサンの火球を消滅させた、今は眠っている彼女の……」 そこで合点がいき、手をポンと叩いた。 「あれが悠のイージスよ。アンタも、何度も使うところ見てたでしょ?」 そして魔人が何かを言おうとしたその時、しゃがみ込んだ白斗が声を上げた。 「違う……こいつじゃない」 「……え?」 その言葉に、その場の全員が地面を覗き込んだ。 周囲の雨水が流れ込み、どこか池のようにもなり始めているそれは。 人間一人がすっぽり収まってしまいそうな、大きい大きい穴の数々。 しかしながら、それはただ力任せに、そしてただただ乱暴なまでに作られた大穴だった。 「……悠が倒れていた公園で俺が見つけた穴はもっと完全な球体で、何より周囲に中身の土が残っていなかった」 叩き付けられた衝撃で、まるで爆発でもしたかのように周囲に飛び散った残土を白斗が見つめながら言う。 「……つまり、悠を襲撃した犯人はこいつじゃない」 「って事は、真犯人はあの堕天使か死神か、って事かよ……?」 その先は、誰も口にしようとはしなかった。 そしてその一部始終を、部室棟の屋上からずっと見つめ続けていた人影の存在に気付く者はいなかった。 堕天使でもなく、死神でもないその姿は、見届けた結末に小さく舌打ちすると、いずこかへと去っていった。