……見つけた。 陽も落ちかけて周囲が赤黒い夕闇に包まれた、五月の初旬のある日の夕刻。 買い物帰りの主婦や遊び歩いている学生らしき集団など雑多な群集が行きかう商店街の中心部で、その人物は小さくつぶやいた。 その目が見据えるのは、あの時からずっと追いかけ、探し続けていた姿。 あの時とはいつだろう、と考え、何故か思い出せない事に気づいた。 だが、何でもいい。これですぐ終わるのだから。 そう心中で吐き出したその人物は、改めて眼前の標的を睨み付ける。 だがしかしここで焦って飛び出せば、周囲の人ごみに紛れて逃走を許す事にも繋がる。 自身の内側からの声が告げる忠告に耳を傾けながらも、自分自身に冷静になるように呼びかける。 そんな中、視界内の標的がふとその動きを止めた。 気づかれた? ……いや、今がチャンスだ。 もう二度と、絶対に逃がさない。この手で、必ず。 未だ動かないままの標的の真後ろに立った人物はそうつぶやき、その背へと向けて手を伸ばした。 そして。 「とりゃー!!」 振り返ろうとした瞬間の標的(ターゲット)に飛び掛かった室宮葵は、逃げられる寸前のところでその標的(ターゲット)、探すように依頼されたまだら模様の子犬の首根っこを捕まえていた。 「やっと捕まえたー! もう、ホント手間かけさせちゃってこのこのー!」 歓喜の叫び声をあげながら、ラフな私服のTシャツに泥が付くのも構わず彼女は両腕の内でもごもごと動く小動物をひしと抱きしめる。 『……で、本当にソイツは探していたペットなのか? この期に及んで違ったなどとなると流石に面倒だぞ』 するとその背後から、女性と少女の中間と思わしき幾分か低めの声がすると同時、半透明の人影が現れた。 葵に取り憑いた幽霊であるクレアが小犬に向けてその半透明の手を伸ばすが、子犬には見えていないのか特に気にした様子も見せず、ただ小さくくしゃみをした。 「あ、それもそうね。ええっと……うん、コイツよコイツ! 依頼完了っと!」 自身の上司から渡された写真と標的(ターゲット)とを見比べて、それが依頼対象の『タマ』である事を確認した葵は、再び叫び声をあげた。 ただし今度は、いくらかの不満と疲労の色を乗せて。 「もう! こんな事で貴重なゴールデンウィークの初日を丸々潰されるなんて! ……で、これの報酬っていくらだったっけ? とりあえずは数日間学食で豪遊できるだけのお金をもらわないと割に合わ――」 『確か……ちょうど千円だな』 クレアがやっと四桁に達した金額を口にすると同時、葵はむきぃと喚きながらノシノシと今来た道を引き返していった。 発端は確か……そう、ゴールデンウィークの初日、本日の昼下がりだった。 学校の友人たちを率い、葵主催によるグルメツアー〜イン穴場〜に出かけようとした矢先、自身が所属する便利屋組織の上司から、『仕事』があるので今すぐ来るようにというメールが届いた。 その友人たちに平謝りしつつ便利屋の建物に向かうと、上司はにやけ顔で葵の手に一枚の紙を押し付けてきた。指示書らしきその紙いわく『迷子のタマちゃん捜索大作戦』。 そんなわけで、葵は今朝から街中を駆け回ってタマちゃんを探していたわけなのだが……。 「それにしても、ここまで何度も何度も毎回あと一歩のところで逃げられるなんて! とっととあの超能力(クオリア)、使ってやれば良かったかしら?」 どこかで火事でもあったのか遠くから消防車のサイレンが微かに聞こえてくる中、葵は本日数時間にも渡って繰り広げていた追走劇を思い出し、捕獲したばかりの小犬に向けて恨めしげにつぶやいた。 葵が持つクオリアである『ソウル』は、先月出会った怪しげな魔人――ただしそれが本物である事だけは認めざるを得なかったが――から受け取った力であり、人間以外の全生物に言う事を聞かせられる……らしい。 もしその力を早めに使用しておけば、ここまで小犬に何度も逃走を許す事は無かったかもしれなかった。 『まあ……超常的な力はあまり軽々しく使うなと秋津に言われてるしな……』 隣の幽霊が、どこか苦笑い気味の笑みを浮かべて上司の名前を口にした。 葵の所属する便利屋組織、協会の表の顔は確かに街の便利屋。草むしりに買い物にそして犬猫探し。そんな内容の任務(しごと)が、毎日のように上司の秋津から言い渡される。 だがそんな便利屋の裏の顔は、超常的な事柄に関する『業務』を行う組織の、とある一支部。 どこにあるのかどころか、具体的に何をしているのかも知らない、葵にとっては限りなく胡散臭い協会の『本部』からここの支部に指令が飛んでこない限り、毎日は平穏そのものであった。 「わほー! 大きい大きい! やっぱりこういうのは少しぐらい高くても、大きいサイズに限るよねー」 大通りから少しそれた路地にひっそりと存在する、自身が所属するいつもの支部のいつもの建物。 タマちゃんを抱えたまま、そこの外付けの階段に足をかけたところ、唐突にそんな声が聞こえてきた。 露骨なまでに歓喜の色を隠そうともせず、子供のようにはしゃぐその声の主は―― 『……おい、何してるんだお前』 ため息をついたクレアが葵の代わりに、その人物に詰め寄った。 建物の一階部分に位置する喫茶店のオープンテラスにて、大盛りのパフェをキラキラした目で見つめている自分たちの上司へと。 「うん? 見ての通りパフェ食べてるんだよ? 期間限定のどっちゃりデンジャラスかぼちゃ〜パーフェクトなイチゴとプリンアラモードを添えて〜、略してどでかパフェ――」 「……ふざけないでよ!!」 唐突に葵が小犬を抱きかかえていない方の手を、秋津の眼前へと叩きつけた。 夕焼けに照らされて橙色に輝くどでかパフェが危なしげに揺れるのも構わず、彼女は身をずいとテーブルの上に寄せる。 「なんで……なんでそんな大事な事を教えてくれなかったのよ!? それに自分だけそんな美味しそうに食べるなんて! ホント信じらんない!!」 『……』 葵の手がどさくさ紛れにイチゴを一つつまんで自身の口に放り込んだのをクレアは見逃さなかったが、眼前の相手は迫力に気圧されたのか気付いた様子は無い。 『……ああ、お前はそういう奴だったな……』 一瞬でも相手の怠慢に対して怒っていると思った自分がとてつもなく恥ずかしく思えてきて、クレアはため息をついた。 「いやー、ごめんごめん。最近私も忙しくてねー。ほら、あの二人に頼む買い物リスト作りとか、雑草がいっぱい生えてそうな地域のチェックとか」 支部長は片手を頭の後ろに当ててなっはっはー、と笑うと、そこでやっと葵が抱えている小動物の存在に気付いたようだった。 「おっ、初のお仕事終わったみたいだねー。……うん、この子に間違いない。ご苦労さまー」 それから相手は葵の頭によじ登ろうとしていた小犬を抱きかかえ、座ったままの自身の膝の上に乗せた。 「じゃ、この子は私が預かっておくねー。依頼主さんにちゃんと渡しておくから、今日はもう帰っていいよー。お疲れー」 そう言うとポケットから一枚のお札――どでかパフェのお釣りであるらしい――をピロッと取り出した。 「ほいっ、初任給!」 「……ねぇ、ホントに千円ぽっちなの? 今日こんなに街中探し回ってたのに?」 むくれながらもそれを受け取った葵は、手近に置かれていたメニュー表に視線を向けた。 「もう、こうなったらあたしもここでそのナントカパフェ注文してやろうかしら」 だが、そこで相手は困ったような笑みを浮かべると、葵に向けて軽く手を振った。 「んー、今からここで人と会う約束があってねー。後でどでかパフェおごってあげるから、今日は帰った帰った!」 ……。 半分追い払われるような形で、オープンテラスの外に出る。 「あー、もう最悪! ヒヨータイコウカ? が全く釣り合ってないわよ……」 『まあ……そう言うな。これでも誰かの役に立ったことは確かなんだ』 ぶつくさ不満を口にしつつ帰路に就こうとした葵の視界内で、とある人影が建物の上の階へと上っていくのが見えた。 本日休業の張り紙がなされた出入り口の扉を押し開け、便利屋の仕事が言い渡される待合室に身体を滑り込ませた葵の眼前には。 「あれ? ねーちゃんいないのかよ?」 普段はいるはずの便利屋業務を求める大勢の学生集団が存在しないせいか、珍しく閑散とした室内で、大きな買い物袋を二つ抱え込んだ少年が困ったように頭をかいていた。 「それなら下の階でパフェ食べてたわよ。オープンテラスの方」 『……ああ、それはそれはもうご機嫌にな』 葵は自身の兄である室宮光輝が手にした買い物袋の中身を覗き込む。いつものように大量の菓子類やらジュースやら紙コップやらが詰め込まれていた。 そこからお気に入りのチョコレート菓子を引っ張り出し、当然のように封を開けたところで、とある人物の不在に気づいた。 「あれ? 悠は?」 ここにはいないその人物は、いつもなら光輝と二人一組で買い物をしているはずだった。 「ああ、アイツならさっきまで一緒だったんだけどさ、途中で用事があるって俺に荷物押し付けてどっか行っちまった」 「へぇ、珍しいわね。真面目なあの子が途中で仕事投げ出すなんて」 近くに置かれていたリットルサイズの炭酸飲料のフタを開け、紙コップに中身を注ぎながらつぶやく。 「さてと……この大量の菓子類片付けてから、買い物終わったってねーちゃんに報告しなくちゃな。そういうわけで俺の方はまだ時間かかりそうだ。先帰ってていいぜ」 適当に後ろ手を振った光輝は、大きな買い物袋から中身を選り分け、乱雑に戸棚の空いているスペースに押し込んでいく。 「お使いも大変よねぇ。ま、今日はあたしもタマちゃん探し大変だったけど。頑張ってー」 そんな彼をその場に残し、葵とクレアは室内を後にした。 「あれ? あの人は……」 外付けの階段を降り、大通りへと通じる路地へと出た辺りでふとオープンテラスを振り返った葵は、そこに秋津と見知らぬ人物が同席しているのが見えて足を止めた。 先ほど捕獲したタマちゃんを抱きしめつつ、自身の上司と楽しそうに話しているのは貴金属をやたら装備した年配の女性、端的に言うとおばさん。 「ああ、人と会う約束ってそういう事ね」 『……だな』 二人してその様子をまじまじと観察していると、相手は代金であろうか、葵が受け取ったものよりも2、3倍は多めの紙幣を手渡した。 それを受け取った秋津は、にへら、と笑みを浮かべつつ手をすり合わせ、何度も何度も頭を下げる。それから二言三言言葉を交わすと、タマちゃんの飼い主はオープンテラスを去っていった。 特に何かを期待していたわけでもないが、何の変哲もない便利屋業務の責任者としての仕事だった。 それから葵は陽が陰り始めてきた空を見上げ、大きく伸びをした。 「さって、あたし達も帰りましょ! 今日はペット探しで潰れちゃったけど、明日からは思いっきり遊ぶわよー!」 『まあ何でもいいが、ハメを外し過ぎないようにな』 誰へともなく拳を振り上げ、葵は気勢を上げた。 「……兄さん、何してるの」 津堂悠は、ふと通りかかった公園のベンチの上に仰向けになっている自身の兄、津堂白斗を怪訝な顔で見つめていた。 彼の泥だらけの格好が興味を引くのか、その周囲には数人ほどの小学生が集まっている。 何やら木の棒でぺしぺし叩かれている兄に、悠はどこか他人のフリをしたくなったがそれでも一応は問いかけておくことにした。 「……腰と肩と首と手と足と心が痛い」 よほどの疲労が溜まっているのか、眼前の相手は片腕で目を隠すようにしながらうめくようにつぶやいた。 「……そう」 同じく悠も小さくつぶやいた。ただし、あまり興味は無さげに。 彼がいつも言い渡されている業務内容は、草むしり。 ただしその量は尋常なものではないらしく、仕事が終わると彼はたまにこのようにダウンする事があった。 力尽きる時は大抵便利屋の待合室か寄宿舎の自室内なのだが、今回ばかりはどうにも保たなかったらしい。 「……」 泥だらけの格好が浮浪者然としているためか、公園でサッカーに興じていた小学生たちの好奇心を誘ったようで、彼らに囲まれた中心でピクリとも動かない兄の姿。 ため息をつき、このまま放置してもいいのだろうかと思案し始めた悠は、同時に軽いめまいを感じて頭を押さえた。 どこか遠くで、カラスの鳴き声が聞こえた。 「ねーちゃん、言われた用事全部終わったぜ、っと……」 重い荷物を持っていたせいかどこか筋肉痛を訴える肩を回しつつ、建物外付けの階段を下りた光輝は一階の喫茶店の外側、オープンテラスへと顔を覗かせた。 長期休日の初日という事もあってか、日頃はそれなりに混雑する事も多いこの場所にはさほど客はおらず、ぽつぽつと空席が目立った。 そして中央のテーブル、四人掛けの席に一人で座っているのは。 「お、いたいた。ねーちゃん――」 「もう、遅いですよ、二人とも!」 「……え?」 光輝が中央のテーブルに近づこうとしたその時、唐突に秋津が声を上げた。 それと同時に視界の脇から二人の男性が現れ、彼女を囲むように同じ席に腰を下ろした。 とっさに喫茶店の外壁に身を寄せ、そこでの会話に耳をそばだてる。 「いやー、すまないッスね、ちょっと厄介ごとに巻き込まれてたもので」 濃いサングラスをかけ、決してその表情どころか年齢をも読み取らせようとしないその男性はカラカラと笑いながら、自身の頭を小突く。 「ええ。でもひとまずは問題ないでしょう。……お久しぶりです、秋津さん」 そしてもう片方、何やらいかにも神父らしき服を着た男性は、席に座っている秋津へと深々とお辞儀をした。 この場には似つかわしくないどこか独特な服装の二人の珍客に、オープンテラスの客たちがざわつき始めるが、視線の先の三人は誰一人として気にした様子も無い。 「じゃ、さっさと本題に入りましょうか」 食べ終わった後の食器を近づいてきた店員に渡した秋津が、懐からクリップで留められた紙束を取り出した。それを他二名の間へと滑らせる。 「これが保護対象者の現状の報告書、になります」 「……あ」 一連の様子を建物の陰から隠れ見ていた光輝は、そこでようやく気付く。 いつもはのんびりしていてなおかつ無責任な「ねーちゃん」の表情が、いつになく真剣そのものである事に。 その間にも神父然とした方が紙束を手に取りしばらく眺めると、口元に穏やかな笑みを浮かべた。 「そうですか……やはり、彼も彼女もここにいるのですね。つい先日、秋津さんから聞いてからもなお信じられません」 彼はどこか含みありげに息を吐くと、もう片方のサングラスにその紙束を渡した。 「へぇ、先月はこんな事があったんスねぇ。まあ、僕にとって興味深いのは葵ちゃんのクオリア覚醒、くらいッスけど」 何やら面白そうに、紙束をぱらぱらとめくっていくサングラスの男性。 ……。 「誰だ、あの人たち……?」 光輝がつぶやいた疑問に答える者は無く、視界の奥での会話はしばらく続けられていった―― それからの残りの休日は、何事もなく過ぎていった。 上司の気まぐれなのか慈悲なのか、休み中に四人に業務が言い渡されることは無く、全員が全員思い思いに休暇を過ごしていた。 そして、あっという間にやってきたゴールデンウィーク最終日。 「あー、明日からまた学校かぁ」 夜の八時、人通りも少なくなり始めた商店街。 光輝と悠はそれぞれ小さなコンビニのレジ袋片手に、寄宿舎への帰路に就いていた。 「ホントめんどくせーよな。こういう休みの後の通常授業ってのは。な、津堂もそう思うだろ?」 その隣を歩きながら悠の肩に腕を回すのは、クラスメイトの夕月時雨。その口にはいつものようにシガレットチョコが咥えられている。 「まあ、悠さんは現在のところ無遅刻無欠席の完全な皆勤賞、ってくらい真面目だしなぁ……」 良く言えば男勝りなところが目立つ、悪く言えば乱雑な性格の同級生の手を、悠は迷惑そうに払いのけた。 先ほど寄宿舎で、いつもの四人のうち負けた者二人がおやつの買出しに行くというルールでじゃんけんをしたところ、便利屋の仕事と同じ組み合わせで買い物要員が決まってしまった。 そして光輝と悠が近くのコンビニに向かおうとした時、このクラスメイトに見つかり、ちょうどシガレットチョコを補充したがっていた彼女も同行する事となったのだった。 「ん、どうしたよ? なんかお前さんいつもにも増して素っ気ねーな。ほら、前ならあと数秒はスキンシップを許してくれたろ?」 今しがた払いのけられた自身の手をひらひらさせつつ、不思議そうに首をかしげる時雨。 「そんな愛想良くした記憶も無いけど。……何にしろ、今はやめて。ちょっと体調が悪いから」 そう言い、何も持っていない方の手で自身の頭を押さえる。 「数日前から少し頭痛がするの。昨日は特に酷くて、市販の薬飲んでいつもより早めに寝たらひとまずは落ち着いたけど」 「ちょ、大丈夫かお前さん? ほら、それ持ってやっから」 時雨が悠の持っていたレジ袋を、奪い取るようにして受け取る。 「って、だったら早く言えよ。具合悪いならちゃんと言えば兄貴や葵だって……」 「今は大丈夫。ちょっと出歩くくらいなら全然問題ない。抱き付かれたりされたくないってだけ」 それから悠は歩きながら時雨が手にしたレジ袋に手を伸ばし、ふとそこで道路の反対側を見据えたまま足を止めた。 「ん? なんだなんだ?」 光輝もつられてその方向を向く。 横断歩道を渡った先、アーケード街の歩道のど真ん中にはまるで通行妨害か何かのように立ち入り禁止の黄色と黒のしましま模様のロープが張られていた。 「……何あれ。工事?」 時雨からレジ袋を取り返す事も忘れ、悠が怪訝な表情でつぶやく。 「あれ、お前さんたち知らねーのか? ついこの前、あそこで地盤沈下があったみたいなんだわ」 「へぇ、見に行こうぜ!」 「え、ちょっと……」 「別にいいだろ? 目の前だから、帰る時間もそんな変わらないだろうし」 ちょうど信号が青に変わった横断歩道へと向かって駆けていく光輝。その背へと伸ばされた悠の手は宙を切った。 「えーと、どれどれ?」 応急処置的に張られた立ち入り禁止のロープが占拠する区画へと野次馬根性で近づいた光輝は、身を乗り出してその中心部へと目を凝らした。 そこにあったのは、数十センチほどの直径の大穴。それが不規則にいくつも配置され、歩道のアスファルトをものの見事にくり抜いている。 「うへぇ……何だこりゃ?」 「だから、地盤沈下だって言ってんだろ。それが出来た時は大変だったらしーぜ? ガス爆発だとかテロだとか大騒ぎになって、消防車とかも出動騒ぎだったとかどうとか」 追いついてきた悠と時雨に向けて、光輝は首を傾げた。 光輝自身としては、地盤沈下というよりも、何か隕石でも落ちた際に出来たクレーターのように見えた。 「実はこれだけじゃなくてよ、最近街中でいくつかあるらしーんだわ。こんな感じの穴ぼこ。オレが知ってるだけでも学校の方とか、こっからそんな遠くない路地裏とか」 「ふーん……」 「……。道路の老朽化?」 悠が口元に手を当て、何かを考え込んでいた。 「ま、とにかく行こうぜ。原因は何にしろ、俺たちには関係ないしな」 寄宿舎内の男女が共にいる事が許される、数少ない場所である談話室。 靴を抜いて上がるタイプの座敷作りの室内に、いくつかのテーブルとテレビなどが設置されている。 そこで買ってきたおやつを時雨も交えて開けようとしたその時、悠が急に立ち上がった。 「私はいらない。好きに食べてて」 彼女はどこかフラつく足取りで靴を履き、ゆっくりと女子棟の方へと向かっていく。 「あれ、食べないの?」 スナック菓子を大量に口の中に詰め込んだまま、座布団の上に座った葵が頭上の悠を見上げた。 「頭痛だってさ。少し前から」 『大丈夫か? 風邪でもひいたんじゃないのか? 明日から学校だぞ』 「……分かってる。今日はもう寝る」 「ん? ホントに大丈夫かお前さん? ちょっと頭が回ってねーんじゃねーか? ほら、今会話が噛み合ってなかったし」 クレアの姿が見えず声も聞こえていない時雨が心配そうに悠の顔を覗き込んでいたが、彼女は構わずそのまま女子棟の奥へと消えていってしまった。 「風邪、ねぇ……。アイツ、咳とかしてたっけか?」 最近の相方の様子を思い返し、光輝は首を傾げた。 ――それから数時間ほどが経った、その日の真夜中。 自室のベット内でふと目を覚ました光輝は、室内に青い光がうっすらと明滅している事に気付いた。 寝ぼけながらも身を起こし、光の発生元を探す。 枕元に置かれた先週新調したばかりの携帯電話に、メールの受信を知らせる青い光が点灯していた。 画面右上を確認すると、ちょうど日付が変わったくらいの時刻であるらしかった。 タイトルも本文も無いそのメールには地図のみが添付されており、その中の一カ所には現在位置を示す赤い矢印が表示されていた。 「……誰だよ、こんな夜中に……。ねーちゃんの用事だったら寝るかんな……ふぁあ……」 頭をかきながら欠伸をし、眠い目で送り主を確認した彼はとっさに身を起こした。 送信者、津堂悠。 手近に乱雑に脱ぎ捨てられていた私服に着替え、メールの存在に気づいてから一分も経たない内に自室を飛び出す。 物音を立てないように、それでいて足早に階段までやってくると、そこでとある人物と鉢合わせした。 「あれ、兄貴も?」 自身と全く同じように適当な服に着替えて部屋を飛び出してきたらしき彼は、手にした携帯電話を振った。 「ああ。数分前、こっちにも同じメールが届いた」 「何なんだろうな。この場所に来いって事かよ? それにいくらアイツでも、一言も書いてないメール送るなんてのは……」 言いつつ、再度手元の画面に目を落とす。 「それだけじゃない。このメールは同時送信されている」 ふとつぶやくように白斗が口にした言葉で、ようやく気付いた。 「受信者は俺と兄貴と……葵かぁ。この時間帯にこの三人に送られてきたって事は……。……。……どういう事だよ?」 頭上に疑問符を浮かべながら女子棟の方を向いても、一向に葵が走り出てくる気配は無かった。 「とりあえずは地図の場所に向かってみた方がいい。アイツが何を考えているにしろ、直接聞いた方が早いだろうし」 添付されていた地図は、学校近くのとある児童公園を示していた。 当然ながら時間が時間であるため誰もいないその場所を、二人で手分けして回っていく。 「おーい、悠さーん。……兄貴、何か見つけた?」 「いや、全く」 明かりといえば薄暗い街灯しかない深夜の公園を、携帯電話のカメラを起動しライトで辺りを照らす。 「おっかしいな、どこにもいない……。って事は、いたずら……! ……とかするような奴じゃないしなぁ」 困ったように頭をかきながら光輝は、白斗と離れて手近な植え込みへとライトを向け、そこに足を踏み入れた。 と。 「……うおっ!?」 ふと身体が軽くなる感覚があり、思わず懐中電灯代わりの携帯電話を取り落として尻餅をついた。 それが地面に出来た穴に足を取られたのだという事に気付いたのは、それから数秒後の事だった。 「いててて……何だこりゃ?」 服に付いた土を払いながら、今しがた手放した携帯電話を探す。明かりが点灯したままになっていたため、暗闇の中でも大した労無くして見つかった。 そして携帯電話を拾おうと手を伸ばした時、光輝はライトが何かを照らしている事に気付いた。 それはどこか色白で細めの――人の手。 「おい、まさか……」 震える携帯電話を、その腕の人物に向ける。 植え込みの中で息も絶え絶えに倒れている、悠へと。 「……おい、嘘だろ……」 とっさに手を彼女の額へと当てると、明らかに異常と言えるほどの熱を持っていた。 この場に長時間放置されていたのか手は冷たくなっており、その近くに彼女自身の携帯電話が転がっていた。 ライトを先ほど足を取られた場所へと向けると、そこには数時間前に見たあの大穴があった。 大穴は光輝が落ちたもの以外にも周囲にいくつか点在しており、それらが中央に横たわる悠を取り囲んでいた。だが彼女自身には何一つ傷は無く、買い物に行った時と同じ服にも汚れすら付いていない。 そこだけ何事も無かったかのような平らな芝生の上で、ただ熱っぽい顔でうなされるように荒い呼吸を続けている相方の姿。 「……!」 ふと、彼女の手が何かを握りしめている事に気付いた。 それは……小物入れ(ロケット)を鎖で留めた、小型のペンダント。 そんなものを今まで悠が身に着けていた事は、少なくとも光輝が知る限り無かった。 「くそ……何だよ、何が何だってんだよ……!」 何もかもが分からない事ばかりで、ただ叫ぶ。 「おい、どうしたんだよ!? 一体何があったんだよ!? 悠ぁッ!!」 その声が聞こえたのか、植え込みをかき分けて白斗が駆けつけてきた。 その翌日、悠の皆勤記録は一か月と数日で途切れる事となった。